初めての方へ

イエズスようこそカトリック芦屋教会のホームページをお訪ねくださいました。心から歓迎いたします。

教会は皆のためのものです。なぜなら、「人間はみな神の子である。神は私たちみなを愛しておられ、私たちはみな神から愛されている」からです。それが私たちの「信仰」の原点です。

教会の聖堂では、静かに祈り、心を落ち着かせることが出来ます。また、日曜日になると大勢の人々が教会に集まって、神を礼拝し、教えを聞く、キリストの最後の晩餐を記念した「ミサ」にあずかります。
もちろん、ミサ以外の時間にも、聖堂には自由に入ることができます。続けて通われるうちに、心の安らぎを見いだしていただければ幸いです。

生きがいや、神の救いを求めている方、キリスト教に興味を持たれる方へ、教会の扉はいつも開かれています。

カトリックの〈信仰〉

イエス・キリストの死と復活から始まるカトリックの信仰は、こんにちまで2千年近い歳月にわたって続いてきました。カトリック教会は、この歴史と伝統の上に立ち、現代の人類が抱える深刻な課題にも深くかかわりあいながら、私たちの世界が少しでも平和で心豊かなものになるよう、日々の祈りと活動を行っています。

ここで、私たちの教会の信仰の内容について、簡単にご紹介しましょう。

カトリックの信者が毎日唱えているのが、次の「主の祈り」です。

「主の祈り」
  天におられる私たちの父よ。み名が聖とされますように。み国が来ますように。
  み心が、天に行われるとおり地にも行われますように。
  私たちの日ごとの糧(かて)を、今日もお与えください。
  私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。
  私たちを誘惑におちいらせず、悪からおすくいください。

これは、聖書の中にある、神であるイエス自身から「こう祈りなさい」と弟子たちに伝えられた言葉です。ここには教会の「信仰」のエッセンスがぎゅっと詰まっています。

〈罪〉と〈ゆるし〉――信仰の出発点

まったく心に欠点のない人は、どこにもいません。法律上の「罪」は犯さなくても、日々の生活の中で、欲望のまま行動したり、他人と摩擦を起こしたり、また誰かを見下すとか批判するとかしたりして、後でいやな気分になることはよくあります。自分中心の心がもつこんな歪(ゆが)みこそ、人間の〈原罪〉だといえるでしょう。
こうした「歪み」とそこから来る苦しみは、誰の心の中にもあるものです。しかし、それを自覚し、神の前に告白して、司祭のことばを通じて「ゆるします」と言われれば、どこかほっとした気持ちになります。
〈天国〉とは、そうした自己反省と回心の安らぎの先に見えてくるものだと思います。

〈愛〉と〈いつくしみ〉――神の恵み

私たちは、目の前の現実に追われ、苦しんだり思い悩んだりすることからなかなか抜け出せません。どこにも救いなどない、という絶望的な気持ちにもなります。
けれども、その私たちの命を支えている宇宙の万物や、私たちの身体そのものは、何者が作り出したのでしょうか。
私たちが存在し生かされていること、それ自体が、何か大きな者の〈恵み〉なのです。「私たちの父」である神が、世界の始まりから今の毎日の生活に至るまで、いつも、絶えず、豊かな恵みを与えてくださっているのです。単に物質的な供給としてではなく、「ゆるし、いつくしむ」愛に基づいた〈魂の糧〉として。
キリストを信じる人は、そのような神の愛といつくしみに感謝し、自分自身も、愛する人間のために犠牲となったキリストにならって生きようと願っています。信者たちのその営みが、世の中に〈神の国〉をもたらすことにつながるのです。

「み国が来ますように」――神の国を待ち望む祈り

ミサの中で、参加している人々も司祭も共に「主の平和」と唱えながら互いに挨拶を交わす場面があります。洗礼を受けた信者でも、けっして聖人君子ばかりではないので、ふだんは気の合わない人がいたりするのかもしれませんが、この挨拶の瞬間には、人間を超えた大きな存在の前で、自他の不完全さを互いに受け入れ、ゆるし合い、共に信仰に生きることができるように願っているのです。
カトリックのミサは、はるか昔から受け継がれている祭儀の中で神の大きな力を感じながら、一人ではなかなか実現できないような心(霊魂)の高まりを実感できる機会です。
このような「ゆるし」と「愛」の世界を、教会でのミサだけでなく、いつどこにでも実現することができれば、それは〈神の国〉ということができるのではないでしょうか。

あなたも、この豊かで力強い信仰の世界をもっと深く理解し、生きる支えを見つけてみませんか?

信仰と「聖堂」

十字架カトリックでは、教会の建物のことを「聖堂(せいどう)」または「御聖堂(おみどう)」と呼んでいます。
聖堂は、ただの建物ではありません。また人々が神に向かって祈るだけの場所でもありません。そこは信者にとっては「神の家」、つまり実際に神が存在しているところと考えられています。

芦屋教会の聖堂に入ってまず目に留まるのは、正面の祭壇中央奥にある大きな十字架上のイエス・キリスト像です。これは、神の子キリストがご自分の命をなげうってまで私たち罪深い人間を救おうとした、究極の愛の姿を現しています。この「愛」こそが、キリスト教の教えの根源です。
けれども、十字架はあくまで神の愛を目に見える形に表象したものであり、カトリック信者はこのような「物」自体を崇拝しているわけではありません。

その十字架のキリスト像のすぐ下、祭壇の中央に、聖櫃(せいひつ)という箱があります。この中には、「ホスティア」(小さなパン)が日々のミサの祭儀で「聖変化」してキリストの聖なる身体となったもの(「ご聖体」)が安置されています。
そこは、生きた神ご自身が小さなパンの形をした「ご聖体」のうちにとどまっている、神聖な場所です。信者にとって真に大切なものは、十字架のキリスト像よりも、この「ご聖体」なのです。
祭壇の左横にある点灯した赤いランプは、今ここに神が現に存在していることを示すものです。

そのほか、芦屋教会の聖堂の中には、キリスト教(カトリック)の信仰に深く結びついた様々な像や祭器具などがあります。

さらにお知りになりたい方は、こちらの資料で簡潔に説明してありますので、クリックしてご覧ください。

▷ はじめて芦屋教会にいらした方へ (PDF 226KB)